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仙台高等裁判所 昭和44年(う)237号 判決 1972年7月11日

被告人 樋下光夫

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人松本晶行作成名義の控訴趣意書(但し控訴趣意書中に「原動機付自転車」とあるのを「自動二輪車」と訂正し、同書面一六枚目表八行目に「本件のすべての事案」とある中には、公判中に違反したものは含まない趣旨であると陳述した)記載のとおりであるからこれをここに引用する。

控訴趣意第一点(事実誤認並びに法令適用の誤の主張)について

論旨は要するに、原判決は、原審弁護人の「被告人の本件所為は緊急避難もしくは自救行為に該当するものであり、違法性もしくは有責性を阻却する」との主張を排斥し、被告人を有罪であるとするが、これは原審弁護人の主張、すなわち『(1)耳のきこえない者につき一律に自動車運転の免許を与えないとする道路交通法八八条一項二号の規定は自動二輪車および小型特殊自動車の運転免許に関する関係において、憲法一四条、ひいては憲法二二条に違反する。(2)仮に道路交通法八八条一項二号が憲法に違背するところがないとしても、同法施行規則二三条の適性検査基準において「一〇メートルの距離で九〇ホンの警音器の音がきこえる」者は道路交通法八八条一項二号の「耳がきこえない者」に該当しないとするのは、明白に不合理であつて、憲法の前記各条に違反するものである。(3)仮に以上の点に理由がないとしても、聴力検査に際して補聴器の使用を禁止する現行制度(昭和三九年九月二五日付運転免許課長通達による)は聴力障害に対する正当な認識を欠いた恣意的判断に基づくものであつて不当である。』との主張を排斥する判断において、事実を誤認し、その結果被告人の違法性、有責性を阻却する所為について、被告人の本件所為には道路交通の安全という社会的法益に優先させてまでこれを保護すべき緊急性ないし重要性は認められないとして、これを違法かつ有責とするものであつて、法令の適用を誤つたものであるというのである。

よつて先ず道路交通法八八条一項二号が合憲か違憲かについて検討するに、その所論の要旨は、原判決は耳のきこえない者を自動車運転の不適格者とすることは、道路交通における安全確保の配慮からであろうことは容易に推測しうるところであるとし、耳のきこえない者が自動車を運転することは、「(1)他車の警音器の音がきこえない。(2)鉄道踏切などの警報器の音がきこえない。(3)交通警察上警察官の指示がわからない場合が多い。(4)エンジンの調子が耳でききわけられない。(5)積載荷物の動揺、落下の音がきこえない。」の五点をあげ、右認定につき原審証人西川芳雄の証言を採用し、被告人側の自動二輪車の運転免許を得て事故を起すことなく運転していたろうあ者の存在したことの立証を一般的に危険のないことの証左としえないと排斥し、交通安全に関する国民感情をあげて、前記規定を合憲と判断しているが、右判断は耳がきこえない者が自動二輪車を運転することは、耳のきこえない者に対し一律絶対的に運転免許を与えないとするほど強い危険性があるのかという問題提起を、耳のきこえない者が自動車を運転するのが危険かとか右規定は全体として不当、不合理かという抽象的(運転する車種と危険の程度を拡張している)な問題に取りかえ、かつ原判決のあげる音がきこえないことにより起り得る不便が、いつ、どのような場合に発生し、その結果がどの程度の危険といえるかについて具体的に検討せず、主観的推測により、かつ感情的に耳のきこえない者の運転につき敵意をもつ原審証人西川芳雄の証言を一方的に採用し、前記規定の合憲を推測しているもので、原判決は耳のきこえないものの自動二輪車の運転について証拠の評価を誤り一方的に危険と速断し、その結果違憲の法令を合憲と判断することによつて法令の適用を誤るに至つたものであるというのである。

しかしながら本件記録を調査し、当審における事実取調の結果に照らしても、道路交通法が八八条一項二号において、耳のきこえない者に対し自動二輪車の運転についても免許を与えないこととした点につき所論のように憲法違反があるとは判断しえない。すなわちまず憲法一四条は「すべて国民は法の下に平等であつて……経済的又は社会的関係において差別されない。」と規定し、右経済的社会的関係のうちには憲法二二条にいう職業選択の関係でも差別されない趣旨を含むと解されるが、右規定はその文字どおりの意味においてあらゆる差別を禁止する趣旨ではなく、法の下の平等の原則に反する差別、換言すれば「人間性」を尊重する個人主義的民主々義的理念に照らしてみて、不合理と考えられる理由による差別が禁止されているものというべきで、国民の基本的平等の原則の範囲内において、各人の年令、性別、自然的素質、職業、人と人との間の特別の関係等の各事情を考慮して、合目的性等の要請に従い適当な具体的規定を定めることを妨げるものではなく、その意味で道路交通法がその目的とする道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、および道路の交通に起因する障害の防止に資することの観点から見て、合理的と考えられる差別をすることも憲法の右条項に反するものではなく、所論も「たとえば大型ダンプカーの運転を認め得るかどうかという場合、同法八八条一項二号を道路交通における安全確保の配慮からであろうと容易に推測しうるとした原判決の態度は首肯される。」としていることからも右前提についてはこれを是認していることが明らかである。ここにおいて、耳のきこえない者に対して自動二輪車の運転資格をも与えないこととした道路交通法八八条一項二号の規定が同法の目的に照らし合理性があるか否かが問題となるところ、そもそも自動車(自動二輪車をも含む)を運転する者につき同法が全て免許を有することを求めることとした理由は、自動車が不特定多数の人車が交通の用に供する場所である道路を高速で通行する道具であることから、これを一般人に自由に運転させることは、道具を利用する人車に危険を及ぼすおそれがあるので、これを防止するのみならず進んでその交通の安全と円滑を図り、あるいは道路交通によつて発生しまたは発生することあるべき種々の障害を防止するため、一般人が自由に自動車を運転することを禁止したうえで、前記目的を達成するにつき差支えがないと認められる者につき特にその禁止を解除して運転を行うことができるとしたものであり、同法八八条一項各号の規定は前記目的に照らし運転適性が低く運転免許を与えることが不適当と認められる者を列記して免許の基準を明らかにしたものというべきで、本件に関し耳がきこえない者に対し免許を与えないこととした同法八八条一項二号の規定が前記憲法の規定に反するか否かは、耳のきこえない者が自動二輪車を運転することを禁止することが同法の目的から見て合理性があるか否かにより判断すべきこととなる。

そこで先ず同法の目的とする道路における危険の防止という観点から耳のきこえない者の自動二輪車の運転が危険か否かについて見ると、車、人(以上の二つの要素については問題となる車およびその運転者並びにその他の交通関係者の両面について考えるべきこというまでもない)および道路施設との関係で耳がきこえないことがいかなる影響を及ぼすのかを考えねばならないが、本件において問題となる自動二輪車は道路交通法および同法施行令の上では最高速度を時速五〇キロメートルと定められ、道路運送車輛法および同法施行令の上では軽自動車の内に組み入れられているもので、以上の法律上の取扱いから見ても自動二輪車の交通に占める地位がその他の自動車に比し補充的附随的なものでその交通が他の人車に及ぼす影響も少いとはいえず、かつその実際の性能から見ても一旦事故が発生すれば運転者および他の人車にかなりの損傷を与えることは十分予想されるものであり、自動二輪車を耳のきこえない者が運転して道路上を進行する場合における他の人車の交通との関係では、一般に道路上を進行する自動車が自車の予定行動を他に知らせるにはヘッドライト、テールランプの明滅等光を用いる方法によると共に警音器の吹鳴という音による方法を用いていることがしばしばあるところであることは通常人のよく経験するところであり、この意味で原審証人西川芳雄が自動車の警音器の音が聞えないことを危険の事例として上げ、当審における鑑定人豊原恒男が、路上運転中に他車が追越しをしようとする場合危険性はやや増加のおそれがあるしその頻度は非ろうあ者でもヘルメットを着用する場合があることを考慮しやや大であるとし、自分の車が車線を変えようとするときその車線をすでに走つている後方の車が警報器を鳴らし車線変更を許さず走行を続けようとする場合車線を変更するか待機するかという微妙な判断をなすにつき不利を生ずるおそれがあるとし、緊急自動車にであう場合に、緊急自動車を認知することや退避することなどがおくれる可能性があり、緊急自動車の走行に難渋を与えた場合その頻度は少いとは見られるが緊急自動車の行動目的とする情況に対し不都合を与えることになり、連鎖的に発生する他人や他事物への損傷が考えられるとしていることも危険の一態様として首肯しうるところで、原判決が危険の例として、警音器がきこえないことをあげているのも以上のように種々な場合に考えられる危険を総括して表現したものとして首肯しうるところであり、道路施設との関係でも音により人車の通行を指示規制する施設の典型例として踏切りが考えられるところで、通常の場合は視覚によりその指示を感得しうるが見とおしの利かない場合や初めてであり踏切りではろうあ者の方がおくれて気付くという不都合が考えられ、前記西川証言および豊原鑑定人もその危険の程度の評価こそ違うがこれをあげていることは無視しえないところである。所論は原判決があげた警音器がきこえない危険につき、警音器吹鳴は道路交通法五四条により原則的に禁止され、吹鳴義務を負う場合と警音器使用についての道路標識等を設置してある場所とは原則的に同一であるから事前に予測しうるとし、たとえ警音器がきこえなくとも徐行や前方注視等により十分安全に運転できるというが、道路交通法は五四条二項において危険を防止するためやむを得ないときは警音器を鳴らすことを認めているのであつて、かかる場合には耳のきこえない者が前もつて警音器の吹鳴されることを予測しうるとはいえないこと明らかであると共に、かかる意味で警音器が鳴らされた場合こそ危険の程度は高いというべきであり、また前記の自動二輪車の性能、法的規制から見ると耳のきこえない者が自動二輪車を運転する場合はその性能を無視して徐行、前方注視を耳のきこえる者以上にするという経験則があるともいえないからこの点についての所論は理由がなく、前記豊原鑑定の結果によればろうあ者の視知覚は正常者と同じかむしろ劣るという研究がでているというのであり、また夜間運転および高速運転においては視覚能力が低下することは経験則上明らかであるから、その危険の程度が耳のきこえる者に比し高くなることは明らかである。さらに所論は自動車運転免許を得て事故を起すことなくこれを乗りまわしていたろうあ者があつたことについて、原判決が「少数の事例をもつて一般的に耳のきこえない者に原動機付自転車ないし自動二輪車の運転を許してもなんら危険はないという証左とするには足りない。」と判示したのは立証上の制約を無視し科学的判断を放棄したものであると非難するが、そもそも広義の刑法における危険の概念は法益侵害の結果発生の可能性に対する評価判断であるから法益侵害の結果(本件においては交通事故)発生の可能性のあるべき事態を想定したうえでその結果発生の回避ないし予防にいかに対処しうるかを考察せねば、危険の判断に資する価値は少いものであるところ、原審において耳がきこえないか或いは難聴であるにもかかわらず自動車運転免許を得て、自動二輪車等を乗りまわしていること、またはかかる事例を知つていることを証言する証人大家善一郎、同中西喜久司、同大崎英夫、同黒崎信幸および同田力望子の各供述は、結局事故を起したことはないとか危険を感じたことはないというに過ぎず、これらの事例をもつて危険がないことの証左とするに足りず、これと同旨の原判示は十分首肯しうるものである。しかも道路交通における危険は不特定多数の人車が思い思いの速度で進行する道路における問題であり、さらに車道においては相互に高速で進行する自動車間において発生する問題であるから、耳がきこえない者が道路において自動二輪車を運転することが、他の自動車の運行および人の歩行に対しいかなる不利益ないし危険を与えるかをも特に考慮に入れねばならないところ、当審における鑑定人豊原恒男の鑑定結果によれば、ろうあ者においては音のない世界に住んでいるのであるから音による警告とか音を使おうとする心の用意(レデイネス)ができていない心配があり、道路上の緊急事態に対して、警音器で防ぎうるような事故を防ぎきれない場合があるという意味の危険の問題を考えさせることになるというのであり(当審における証人山家英次郎は、ろう者も音を視覚と触覚により感得しうるのであつて音のない世界に住んでいるとはいえず、ろう学校の生徒も声を用いて先生に呼びかけている旨証言しているが、右証言はろう学校内での状況を述べたに過ぎず、道路における場合にまでその例を拡張するのは相当でない)、さらに耳のきこえる者が目で道路状況を確認するだけでは不安を感じて警音器を使用することもあることを考慮すれば、正常者が耳で聞いて行う道路状況の判断を、ろう者が視覚によりカバーしうるか(例えば雪、霧などの天候条件、夜間のように視覚条件が悪化する場合は特に問題となる。)については右鑑定結果も危険が考えられるとして指摘するところであり、そのほかにも時と場所によつては自動車が道路に満ちあふれる現状においてはマイクロフオン等を利用し運転者の視覚の及ばない所から音声により自動車や歩行者の交通を制限したり、迂回道路の利用を求めたりして交通を整理するなどの指示がなされたりする場合があり、かかる指示を無視する車輛の存在することにより交通が渋滞することがあることは我々の経験するところであるから、原判決が交通警察上警察官がいろいろ指示してもわからないことをあげ、たとえ自動二輪車であつても危険があるという原審証人西川芳雄の証言をもつともであるとしたのも、前叙の道路交通法の目的から見て十分首肯できる。なお所論は原判決が耳のきこえない者の運転が危険な点として、エンジンの調子が聞きわけられないことおよび積載荷物の動揺、落下の音がきこえないことをあげた点につき不当であると非難するところ、当裁判所も右二点は耳のきこえない者が自動二輪車を運転する際における危険として取上げるには、耳がきこえる者が運転する際における危険と比べても些細なものであると思料するが、右二点は原判決も附随的に挙示したことが判文から読みとられ、また、原判決が国民感情とか世界の大勢について言及した点を非難する所論も、これまで検討して来た諸事情並びに原審証人井手精一郎の証言、岩手県警察本部警視中平登作成の「運転免許欠格事由について」と題する書面および国際連合経済社会理事会運輸通信委員会の勧告書の写とその訳文により認められる国際運転免許については耳がきこえない者を運転免許欠格事由とする国の多いこと、国際連合経済社会理事会の運輸通信委員会自動車運転免許委員会においても聴力の著しい減退はどんな自動車の運転にも障害となる旨の報告をなしていることなどの事実に照らすと、前記合理性を否定すべき事由として援用するに足りない。以上検討して来た諸点を考え合わせると、道路交通法八八条一項二号が耳がきこえない者に対し自動二輪車についても運転免許を与えないこととしたのは、同法の目的に照らし十分合理性があり、憲法が一四条で禁止している差別にはあたらないといわねばならず、ひいて憲法二二条にも違反しない。この点に関する所論は理由がない。

次に道路交通法施行規則二三条の適性検査基準が前記憲法の各条項に違反するか否かについて検討するに、この点の所論の要旨は、右基準は「一〇メートルの距離で九〇ホンの警音器の音がきこえる」者は道路交通法八八条一項二号の「耳がきこえない者」に該当しないとするが、これは感覚的な音の大きさについては規定するがその音のサイクル数については全くふれていないところ、難聴者の場合その難聴の性質により、同一の音の大きさでもサイクル数が異るごとにその音のきこえる程度が異ることが普通であるのに、右基準は自動車の一般警音器の音と踏切の警報器の音、パトロールカー、消防車、救急車のサイレンの音とはサイクル数が明らかに相違することを無視し、一般自動車の警音器の音だけを基準としたもので不当不合理であつて憲法の前記法条に違反するというのである。

しかしながら当審における鑑定人豊原恒男の鑑定結果によれば全般的に言つて一〇メートルの距離で九〇ホンの音がきこえる者でも音色の弁別や言語の理解ができない場合は少くないとし、右程度の聴力では前述した音による警告とか音を使おうとする心の用意の点で全ろうに比し相当よい条件をもつていることになるであろうとしている点が目をひくが他の点ではある程度安全性が高まるか、全ろうに比し僅かに有利かという程度である旨を述べていること、原審における証人田力望子の証言によれば、前記規準により運転免許を得ている同女でも大きい時計のカチカチという音が聞え、大声を出せば聞えるという程度であることが認められることに徴すると、右検査基準程度の音がきこえない者の聴力の障害は著しいといえるところ、そもそも運転免許を与えるか否かは、道路における自動車の運転という行為を許可するに足る適性を有するか否かの判断に帰するのであるから、現実に道路を運行する自動車の警音器がどの程度の大きさの音を出すかが車輛を運転する者に対して求められる聴力の基準の一つとして重要と考えられることは当然であり、道路運送車輛の保安基準によれば自動車は二メートルの距離で九〇ホン以上一一五ホン以下の音を出す警音器をつけることが求められているのであり、自動車が高速で運行するものであることを考えれば、前記基準の一〇メートル以下に近付いてからの警音は無意味といえるのであつて、この「一〇メートルの距離で九〇ホンの警音器の音がきこえる」程度以上の者につき運転者に求めるべき運転適性中の身体的運動能力の試験の合格基準とすることは、先に述べた道路交通法の目的に照らし実際的な聴力を判定するにつき適切なものというべく、サイクルの数についてふれていないからとて決して不合理とは認められないばかりか、合理的なものといわねばならない。右検査基準が不当違憲であるとする所論は採用しえない。

そこで更に聴力検査に際し補聴器の使用を禁止する現行制度(昭和三九年九月二五日付運転免許課長通達による)は不当であるとの所論につき検討するに、その所論の要旨は右通達が補聴器の使用を認めない根拠としてあげている「(1)音の方向が判断し難い。(2)警戒音以外のすべての音まで増巾されるので音質のききわけが困難である。(3)試験のときはボリユームを高くして受けるが平常はそのようなボリユームでは騒音がうるさくて使用できない。(4)眼鏡と違つてスイツチを切つていても外見力わからない」との各点は、「(1)音の方向については自動二輪車の運転する危険と結びつかず、発音体の方向は前方注視、バツクミラーの使用によりカバーできるし、遠近感が劣る一眼の視力を失つた者に対し免許を与えていることと比し不合理である。(2)音質の問題については警戒音は通常短時間で異質の音であるから、識別可能である。(3)および(4)点については眼鏡使用者についても同様な事情が考えられる。」というのである。よつて右各点について順次検討すると、一眼の視力を失つた者の遠近感が不明瞭になることは首肯しうるが、音の方向が分らなければ目でたしかめ得るといつても、警戒音であることを認識してその方向をたしかめねばならない事態は自動二輪車が道路を進行中に発生するものでありかつその場合に自動二輪車の速度が低速又は道路左端を進行中であるとは限らず、もし高速運行中であれば進行方向外に視線を移すことが危険であることはたやすくいいうるところであり、警戒音が他の音と異り短時間で異質のものであるから識別しうるとするのは右の音の区別につき音質が重要な要素をもつと共に余りに雑多な多くの大きな音の中から一つの音を聞きとることが困難であることを軽視するものであり、眼鏡使用者との比較を以て論ずる部分は、眼鏡が一旦装着使用すれば補聴器がそのボリユームを変えるように度数を変えうるものではないことを無視し、かつ眼鏡使用者が免許条件に反する行為をたやすく取るのが通常であるとはいえないにもかかわらず、かかる通常ならざる事情を前提とするものであり、さらに原審における証人田力望子および同西川芳雄の証言によれば、少くとも現在において耳がきこえない者が利用する補聴器の性能では難聴者にとつても運転のために補聴器を使用することが利益となることがないと認められ、現在の補聴器の性能をもつては音の方向が判断し難いことや警戒音以外のすべての音まで増幅されるので音質の聞きわけが困難であること等の難点を克服しえないことに徴すると、適性試験を行うに際し補聴器の使用を禁止することとした制度は道路交通法の目的に照らし現段階では合理的なものといわねばならない。右制度が不当違憲なものであるとする所論は採用することができない。

以上の次第で、自動二輪車の運転免許に関し、道路交通法八八条一項二号の規定が「耳がきこえない者」に対し免許を与えないとしたこと、道路交通法施行規則二三条の適性検査基準が一〇メートルの距離で九〇ホンの音がきこえることを適性検査の合格基準としていることおよび聴力検査に際し補聴器の使用を禁止する措置をとつていることは、いずれも道路交通の安全を主目的とする道路交通法の目的に照らし十分合理性があり、これらの規定および措置が憲法一四条で定める法の下の平等に抵触する不当な差別ということはできず、ひいて憲法二二条にも違反せず、これと同旨に出でた原判決の判断は正当である。そして原判決挙示の証拠はもとより、原審および当審において取調べられた全ての証拠を精査しても、被告人が自動二輪車を無免許で運転したことにつき緊急避難を認めるに足る現在に差し迫つた危難と目すべき事情も、被告人が自己の権利を保全するため他に適当な方法がなく自動二輪車の無免許運転に及んだといわねばならぬ事情も共に認められないから、原判決が緊急避難および自救行為の主張を排斥したことについても何ら事実誤認や法令適用の誤りの違法は存しない。論旨はすべて理由がない。

控訴趣意第二点について

論旨は量刑不当をいうにあるので、記録を検討するに、被告人は昭和三八年七月から昭和四二年八月まで道路交通法違反の罪により六回(うち五回は無免許運転)にわたり罰金に処する旨の略式命令を受けているにもかかわらず、原判示のとおり昭和四二年七月一三日から同四三年七月三一日まで九回にわたり自動二輪車を無免許で運転したもので、原判示第一ないし第五記載の無免許運転により、昭和四二年一二月二八日盛岡地方裁判所に起訴されたのち、原判示第六および第七の無免許運転を重ねて、昭和四三年六月二八日前同裁判所に起訴されたが、さらにその後原判示第八および第九の無免許運転に及んでみたび起訴され以上合せて審理されるに至つたもので、そのうち原判示第二および第七の所為は夜間の運転であり、また第七の無免許運転はビールをコツプ二杯飲んだ後の運転であり、その無免許運転の回数は多く、また被告人の検察官に対する昭和四二年六月二四日付供述調書によれば、被告人は検察官の「今後は絶対無免許運転をしないことを誓うことができるか。」との問いに対し「仕事の関係でどうしても必要であるので誓うことはできません。」とあえて答えていることが認められ、また原審第八回公判廷においても、「法律を犯しても自分のことは自分でやらなければなりません。」と述べているのであつて、これらの諸事情に照らせば、被告人の本件各所為に対する罪責は決して軽いものとはいえない。しかし被告人がかかる言動をとつたことの裏には一五才の頃から車(普通乗用自動車および原動機付自転車)の運転を覚え無免許運転を重ねたが事故を起さなかつたことに支えられた自信、聴力の欠損にもかかわらず他に頼らずに生きており、その生活のためには自動二輪車を運転することが必要であるけれども運転手を雇い入れるという経済的損失を負うまでもないという認識、耳がきこえない者は弱者であるのに法律はこれを苦しめると被告人としては感じている不満等が存すること、および被告人は全日本ろうあ連盟の役員の一人として全国ろうあ者の運転免許を求める声に押されて正式裁判に至つたものであることが認められ、これらの諸事情は非難さるべき点もあるが酌量すべき余地がなくもない。以上の諸事情を勘案すると、原判決が被告人に対し懲役六月二年間刑の執行猶予をもつて臨んだのは、まことにやむを得ないものというべきで、所論の被告人が略式手続による機会を与えられたことがあるとの点も、昭和四三年八月頃から妻に自動車を運転させているとの点も前記刑の量定を左右するに足るものとはいえない。論旨は理由がない。

よつて刑事訴訟法三九六条に則り本件控訴を棄却することとし、当審における訴訟費用は同法一八一条一項但書に則りこれを被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

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